お茶漬けのしみとふるーつ寒天

お手紙風ブログ。それから本と映画、デザイン、アートとなんやかんやを赤裸々に。

表象と私たちと世界

表象=representationとは、ジーニアス和英辞典によれば表現(する「される」こと)、表現[描写]した[された]もの、記号、代表(する[される]こと)、代理(権)、陳情、抗議等、様々な意味をもつ。記号論で言えば「表象されるもの」と「表象するもの」である。「表象されるもの」とは心に思い浮かべる像、「表象するもの」とは作品のことだ。記号とは意味するもの、すなわち表現、意味されるもの、すなわち内容のことである。意味するものは表象をみる人の心に浮かぶものなので、どこにも現実は存在しない。表象≠現実なのである。

表象は五感で感じとるものである。大まかに音楽等の時間表象と絵画等の空間表象がある。こういったメディア=媒体は昔と今で大きく形態を変えている。昔はレコード等、私達は生で触れる事が出来たが、今はテクノロジーの進歩により需要が容易になり「再現」が可能になったといえる。レコードからCDへの移り変わりがその例である。

このように現代社会は時間メディアに囲まれている。同じ時間に同じ感性を揺さぶられる多くの個人はもはや大きな一つの共同体である。その中で批判的に表象を分析し、時々周りを見渡して自分がどこにいるのかを知り、自分という存在を見失わないことが私達の課題である。

人の体は前後、方向=センスをもっている。これらは私達の世界を決めるものだ。

だが、カメラの視点は私達に見ることが不可能な世界をみせてくれる。その技法としてモンタージュがある。これは単体の写真等を組み合わせて新しい意味を生み出すことである。

普段の私たちは主体から客体をみているが映像を見た時はその逆になる。映像は世界の再構築を訴える。その時私達は「私」「今」「ここ」といった認識の原点に立ち返ってみるのである。授業ではコマ撮りの映像作品である伊藤高志のイルミネーション・ゴーストシリーズの“SPACY”を取り扱った。

芸術という領域は1.文芸2.音楽3.絵画4.演劇5.建築6.彫刻7.舞踊8.映画とされている。

近代は遠近法でものを把握していたが、現代になり複製技術により映画が登場し「オリジナル」という唯一の、真正の作品という観念が消失する。

映画の文法とはアングル、フレーム、モンタージュ等である。授業では「アメリカン・シネマ“ハリウッドスタイル”を扱った。

「分かりやすくて面白い映画の文法」とされるハリウッドの手法は、技術や撮り方は観客の目に触れないようにし、カメラの動きと俳優の表情に配慮する方法をとる。

ハッピーエンドでないのが名作とされ、編集、撮影、脚本の技術をここで確立する。あらゆる点が事前に決定されていることを特徴とする。技法としてはMTVカット等があり、シネマスコープに適用されていた。ストーリーの特徴としては、一人称視点で語られ身分差の恋が度々登場するということが挙げられる。世界中の誰もがヒロインとヒーロー、どちらか若しくは両方に感情移入することを狙っているのだ。授業では「VISION OF LIGHT」を扱った。

表象には女性も含まれる。なぜ女性なのかという問いに対しては、一般的に社会的地位が低く弱い存在であると捉えられがちな女性にスポットライトを当てることで、普段隠されてしまう女性の意見を表向きにして女性の人権、存在について主張し人々に考えさせるためであると私は答える。

女性の描かれる対象としては無垢、優しさ、弱さ、というイメージをもつ「聖母型」と汚れた女性という「勝負型」がある。そして男性という存在と対比すれば力を行使できる側とできない側、と表現することもできる。授業では性差、人種差、階級差等のテーマを含む題材として「ひめゆり戦史 いま問う国家と教育」を扱った。

主体であり対象でもあり表象でもあるものとしてパフォーマンス・アートがある。授業ではイトー・ターリの「ひとつの応答」を扱った。この作品は朝鮮人慰安婦を題材に日本人が表象しているものだ。日本と女性の在り方を問うている。

ジェンダーとは文化的性差、セクシュアリティとは性意識のことである。イトーのテーマは広い表皮、「内と外」である。表皮は内と外の境界、彼女にとっての「内」とは同性愛のことである。

このように内と外、つまり内なる個人と社会的規範にずれがある人は生き辛く、自分自身の価値に悩むことが多い。他者に認めてもらうことが出来ればよいが、それも叶わず自己肯定できないと他者否定に走ってしまう。

ジャーナリズムも表象のひとつである。選挙では民意(=世論)を歪めて表象していることがあり、私達はそれに表象されないよう利用されないよう心掛けるべきだ。

このように、現実と私達の仲立ちをしてつなぐ役割をするのがメディア=媒体である。

   「表象の持つ力の渦」

 表象は人々、この世界にとってなくてはならないものである。故に、この世界から無くすことはできない。

しかしながら、その表象も問題をかかえている。それは、まず力を持ちすぎることがあるという点である。表象の持つ力に呑まれ、自己をありのままに表象できない人々がいる。ジャーナリズムの例を挙げれば分かり易いだろう。政治は多数決で決まる。

だが、そうして決められたものが正であるとは限らない。

そして大衆文化が発信する娯楽もまたその類である。流行しているからといって何の考えもなしにファッションを取り入れるだとか音楽を皆で聞くというのは危険である。わたしたちはそういったものに惑わされて自己を見失ってはならない。なぜなら、そういった大きなメディアの陰には大きな支配権力が及んでいる可能性があるからだ。気づいたときには私達は個性を失い、ひとつの無個性な共同体になりかねない。外見を取り繕うばかりで中身の無い状態になってしまう。

そもそも個性とは私たちの「内」から滲み出るものである。前述のような無個性な状態にならないためにはどうすればよいか。その答えは、自己を確立するということである。

そのためには、一つのものに囚われず様々な表象を吟味したうえで、自分とつながりのあると感じ取れるものを模索して、それに自分の姿というものを見出せばよいのではないだろうか。

 次に、媒体によって対象の受け取り方が異なり、当初の目的とは違う方向に広まる可能性を持つという点である。表象を受け取る対象、つまり人々も媒体となり得る。

しかし人々はひとりひとり異なる存在なので解釈の仕方、広め方も変わってくる。

抽象的な例えだがここに「林檎」があるとしよう。そして、人々がその「林檎」を立って見つめている。人々は目の前の「林檎」がなんであるのかということを知らないという前提で考えてほしい。ある人は齧ってみて美味しい、と味覚で感じ空腹を満たすため独り占めするかもしれないしあるいは仲間に配るかもしれない。ある人は視覚できれいだ、と感じ絵に描くかもしれない。重さを量る基準にする人もいるかもしれない。(キティちゃんの体重は林檎の個数で公表されている)

このように、人々によって感じ方、そしてそれをどのように利用するかは異なってくる。

これを表象に当てはめた時、問題が浮上する。

表象は悪用される可能性ももっている。映画の例でいえば映画は元々エンターテイメント的側面を持っていたが、人々を感化させやすいということでヒトラーの宣伝(ニュース映画)にも使われた。

 最後に、表象は理解しにくいという問題があるがこれは特に気にする必要はない。表象とは、なかなか言葉に置き換えるのは難しい。

置き換えられたとしても、それが作者の意図していることと合致するとは限らない。表象に触れ、感じ、私達の心が揺さぶられたなら、それだけで十分なのである。