お茶漬けのしみとふるーつ寒天

お手紙風ブログ。それから本と映画、デザイン、アートとなんやかんやを赤裸々に。

『ペルソナ』(多和田葉子)論 

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まず「ペルソナ」という言葉の意味が気になって調べたところ、次のような説明が出てきた。

「本来の意味は俳優のかぶる仮面。そこから奥にある実体を意味するところになり、個的人格personの意となる。キリスト教神学におけるペルソナとは、三位一体論に関して、神の唯一の神性の中の三つの「私」といえる基体の意であり、客観的に一個のそれ自体で完結している全体、直接神に向かって作られた唯一のものとして、それ自体で完成した理性的な単一実体substantiaを意味する。これはテルトゥリアヌスによるとされ、以後この語は西欧神学、哲学において、認識と愛とを備えた精神的実体の意で用いられた。ユングの心理学では、表に現れた仮面として、社会的なパーソナリティを意味する。」

(ブリタニカ国際大百科事典より抜粋)

 様々な定義があるが、作中においては、「仮面」としての意味と、「社会的なパーソナリティ」という二つの意味で用いられていると思う。それを裏付ける部分を以下に抜粋する。

「深井の面を壁からはずすと、そっと自分の顔に被せてみた。それから玄関の等身大の鏡に自分の姿を映してみた。すると急に自分のからだが大きくなったように感じた。今まで顔に圧倒されて縮こまっていたからだが、急に大きくなったように見えたのだった。しかもその仮面には、これまで言葉にできずにいたことが、表情となってはっきりと表れているのであった。」

 主人公道子は日本人で異国のドイツに学者として学び、精神病院に通っている。ドイツの中の日本人(東アジア人)、また健常者の中の精神病患者(?)という「普通の中のイレギュラーな存在」として作中では描かれている。道子の病気ははっきりとは記されていないがノイローゼではないかと推測する。なぜノイローゼになったのかは、自分と外界とのギャップが強すぎて、またはそれを気に病みすぎてなってしまったのではないだろうか。作中にも「普通とはどういうことかと尋ねられるとカタリーナにも全く見当がつかないのであった」とあるように、イレギュラーな存在である道子は「普通」と「異常」のボーダーラインを引くことに疑念を持っていることが伺える。そして自分が異常の側にいるのではないかと感じ、それを隠すために周囲と上手くやっていくために仮面を被る。しかし私は異常とされるのは道子だけではないと思った。一見普通に見える佐田さんや山本さんも社会のコミュニティに馴染む為に仮面を被っている。そのため考え方によっては「人間は皆異常な部分を持っていないと生きていけない、ありのままで生きていくことは叶わない」というように考えることが出来る。また「人を外見や印象だけで判断するのはおかしい」というのも、皆が自分を取り繕って生きているからである。最後の場面で「金龍」という店がでてくるがこれはセオンリョン・キムをおそらく意識している。初めの場面で道子が彼に好意を抱いたのは自分と似ているからである。この物語が伝えたいのは普通を定義づけることへの批判であると私は思う。