お茶漬けのしみとふるーつ寒天

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『乳と卵』(川上未映子)論 

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  1. 序論

川上未映子「乳と卵」における中心と周縁の構造はどういったものなのか。また異化の手法はどのように取り入れられているのか。本作品の主題は何であるのか。「乳と卵」という題名に込められたメタファーを考察し、論じる。

〈あらすじ〉

母親の巻子と関係が上手くいっておらず、会話の際筆談をするその娘の緑子が二人で伯母である「わたし」のもとへ滞在しに大阪から東京へやってくる。巻子は以前より豊胸手術を希望しているが緑子は内心そのことに疑問を覚え、奔放な母親の姿を見ていた彼女は自らに初潮が訪れる、つまり大人になることに強い嫌悪感を抱き「厭」と表現する。滞在中に巻子が元夫を訪ねて泥酔して帰ってきたことで緑子は内に抱えていたものが溢れ出し、玉子を手に取りそれを自らの頭に投げつけた。そのことによって巻子は大切なことに気づかされ二人は和解する。

  1. 本論

ⅰ)中心と周縁の構造について

まず「多様な登場人物は物語の進行を促す7つの機能に分けることができ」、語り手は「わたし」であるが、この論では緑子を中心に据え「主人公」とし、「わたし」を「助手」、巻子を「贈与者」(良いものも悪いものも与える)と位置付けて考察していく。

 この物語では世間の認識の中では「普通(本文では、「ほんとうのこと、例えば緑子の周りの胸の成長を自慢する少女たち」)」とされる中心が「異常(本文の緑子が自らを「厭」と表現することから)」とされる周縁を取り巻く形で存在している。しかし世間の中心と周縁、緑子の認識の中の中心と周縁は真逆である。まず、「物語の語り手は、自分たちを世界の中心とみなし、周縁にあるものを彼らとして位置づけ」るため、緑子の中では中心は緑子自身で、周縁は少女たちである。また「『中心』には、「主流」「公認」といった点が認められるのに対し、「周縁」には「不当」「混沌」という要素が認められるのが強い」ことから、「正当」とされる中心の考えが間違っていると感じているのに、緑子は自身が不当であるとされているような感覚を覚えることに「厭」と表現しているのだ。巻子も胸の大きさを気にして世間の中心側に初めはいたが、緑子の玉子を浴びる場面での告白によって周縁側へと移動する。

ⅱ)異化の手法について

 本書p9作品冒頭より。「卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです。図書室には何回か行ったけど本を借りるための手続きとかがなんかややこしくってだいたい本が少ないしせまいし暗いし何の本を読んでるのんか、人が来たらのぞかれるしそういうのは厭なので、最近は帰りにちゃんとした図書館に行くようにしてる。」

この箇所の特徴としては一つ目に一文が長く読点が多用され、鉤括弧があるべく所に無いことが挙げられる。二つ目には、関西弁特有の表現と敬語が交じっていることが挙げられる。一つ目の特徴は講義で取り扱った作品「三月の5日間」にも共通してみられたものであったが、ここからは語り手の曖昧な思考、人間の整っておらず完璧ではない、リアルな話し方、が表現されているが語り手(初潮を迎える少女=緑子)の思春期の不完全なアイデンティティを読み取ることができる。二つ目は東京の人間とは異なる関西の独特な雰囲気が演出され、この特徴は他の川上の作品にもしばしばみられるが、このことは川上が大阪出身であることに由来すると考えられる。また巻子の元夫が「嘘くさい標準語」を話すと本文にあり、東京の言葉が「標準(普通)」とされるが対する関西弁にすることで母娘の「普通でない」(とされてしまう)という位置づけを強調するという川上の意図も読み取れる。

ⅲ)主題について考察するためのヒント

巻子は豊胸によって失われた女性らしさを取り戻したいのでなく、緑子との関係から目を背けたいのではないかと考える。p36の緊張しながら話す巻子の様子やp39「なんだかそもそもわたしが見えてすらないような感じ」で話す姿がその理由である。

筆談の持つ意味について考察する。緑子は言葉を本作品の殆どの場面で発さないが、言葉で表現しきれない体の動きや体温、空気、感情などを効果的に表現するためであると考える。(cf.これは吉本ばななバブーシュカ」、講義で扱った「三月の5日間」にも見られる技法である)

p40「その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもう私たちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産物でしかない」「そんなことはない」と「わたし」の記憶の中で二人の女性が言い争う場面があるが、ここからは「物事に正しいことや間違いは決められていない」という作品のメッセージが読み取れる。p101「ほんまのことってあると思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで。」という物語終盤の巻子の言葉の伏線にこの場面はなっているといえる。

p46「大人になるのは厭なこと」p99「厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でもおおきならな、あかんのや。」という緑子の吐露からは緑子の内面の葛藤、p97「ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん。」という「わたし」の台詞からは不器用で暴力的ではあるがありのままでぶつかった母娘のありようが読み取れる。

p59「乳首から、何もかもが出て行ってしまった。でもな、こうなるんよ。子どもをうんだらば人は。」「何もないねん。ここにはもう。」という巻子の台詞は子ども、つまり緑子を生んだことにより夫や様々なものを失ったと思い込み自らに向けて目を向けない巻子の「逃げ」の姿勢、弱さがうかがえる。

ⅳ)題名に込められたメタファーについて

 題名の「乳と卵」の「乳」は巻子の豊胸手術から、「卵」は初潮を迎える緑子の卵子からの連想である。また母親である巻子とのぎくしゃくした関係により内側の「殻」に引きこもっていた緑子が、東京での3日間によりその「殻」を壊し外側の世界を知るということから「たまご」としての意味も含まれている。それはp25の「緑子は人に自分の体がちょっとでも触れぬように警戒というか、見えぬ膜のなかに自分を入れて少しずつよじらせているように見えた」p32「こんな体があって、その中に閉じ込められてるって感じる」p84「ここの写真の女のひと、たまごみたいな顔してる」p98「玉子を右手に握ってそれを振り上げた。」という表現に象徴的に現れている。p98の緑子が玉子を落として自分の頭に浴びせる場面では、「玉子が割れる」ということが「緑子の内面の殻(膜)が割れる(破れる)、つまり成長、和解ということのメタファーになっている。

  1. 結論

ⅰ)中心と周縁の構造については、以下のように考えることができる。

中心は緑子と巻子、周縁は緑子の周りの少女を代表とする一般化されている考えであり、そことのズレに二人は苦しんでいた。

ⅱ)異化の手法については、以下のように考えられる。

読みずらい文体は登場人物の混沌とした内面を表現するためのものであり、意図的である。

ⅲ)物語の主題については、以下のように考えられる。

主題は「物事には善と悪、正と誤は決められておらず、属する世界によってその判断は異なってくる」ということである。(本文の元夫が「緑子を作ったのは意図的でなかった」という台詞から、生きていることに意味はみんなもっておらず、生き方にそれぞれ正解はない、という絶望的で諦観しているものの前向きになれる見方も裏にあると私は考える)

ⅳ)題名に込められたメタファーについては、以下のように考える。

「乳と卵」の「乳」は子どもが生きるために不可欠な母乳(生のエネルギー)が詰まった胸、「卵」は一つ目の意味として卵子、二つ目の意味として膜をまとった、内側に子どもが宿り、いずれその子ども自身の力によって割られるもの、つまり成長するもののメタファーとしての意味が込められている。

 

  1. 参考

日本文学特講Ⅰ【10】講義プリント

川上未映子(2010)『乳と卵』文春文庫

浅野直樹/榎吉郁夫(2012)『現代文キーワード読解』Z会出版