お茶漬けのしみとふるーつ寒天

お手紙風ブログ。それから本と映画、デザイン、アートとなんやかんやを赤裸々に。

表象とどう向き合うか

現代におけるわたしたちは足が不安定でおぼつかない。流行をおって周りに合わせては安心し、それが自分であると認識しているように思える。このような状態だと、知らず知らずのうちに表象に乗っ取られてしまう可能性を、私たちは孕んでいることを再認識する必要があるのではないか。

 よい例が世論調査である。世論調査は人々への問いかけが誘導尋問になっている場合がある。例えばこうだ。

 「あなたは死刑に反対ですか」という問いに対して選択肢が(ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである(イ)場合によっては死刑もやむを得ない(ウ)わからない、一概に言えない」となっている場合である。この場合、「どんな場合でも」「場合によっては」という言い方をみて、(イ)と回答するように仕組まれている。

 こういった国の操作によって我々は本来の意見をうまい具合に隠されてしまっているかもしれないのだ。こうして、間違った社会統合が促進されてゆく。

 そのためには、我々は虚か実かを見分ける目を養わなければならないといえよう。そのためには常に新聞や本などで報道されるニュースにアンテナを張ることが重要だと言いたいところだが、その報道されること自体がすでに誇張されたりする現代社会である。

 では我々はどうすればよいのだろうか。我々は一つの主体として自立したメディアを作り出すことを求められてはいないだろうか。ものの考え方は人それぞれで、メディアも人の数だけあるといってもよいだろう。そういって生まれたひとつの小さなメディアが真実を表していることだってあるかもしれない。

そして社会の流れまで大きく変えてしまうこともあり得るのだ。

 そのためには世界を広める必要がある。世界の多様な文化や歴史的背景を理解し、ひと、自分以外のメディアとの「つながり」をつくっていくことが、世界を変えることにつながると私は考える。

 

参考

「死刑制度に関する世論調査

http://www.jca.apc.org/stop-shikei/news/81/3.html

ゴジラ

http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/godzilla.htm

クロスオーナーシップ

http://ja.wikipedia.org/wiki/クロスオーナーシップ_(メディア)

 

表象と社会心理

「代表されるもの」と「代表するもの」で構成される政治も表象のひとつである。ここで問題となるのが民意がゆがめられて表象されることがあるということである。例えば選挙では議席と票数の間にずれが生じることがある。

世間一般の意見、または多くの人が共有する意見である世論は西洋のコーヒーハウスを起源とする。のちにカフェ、サロンなどでも意見交換されるようになった。

メディア(medium)とは媒体という意味である。媒体とは仲立ちをするもの、つまり現実とわたしたちをつなぐのがメディアである。

メディアは社会を反映する。だから時代によって伝える内容が異なる。特定少数の発信者から、一方的かつ不特定多数の受け手へ向けての情報伝達の手段がメディアである。新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどである。

ジャーナリズム(=報道)とは、ニュース・出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為である。

ジャーナリズムとメディアの違いは、ジャーナリズムは、内容(真相)のことに重点を置き、マスメディアは、それを流すことに重点を置いている点である。

メディアにおけるクロスオーナーシップとは、新聞社が放送業に資本参加するなど、特定資本が多数のメディアを傘下にして影響をおよぼすことである。

クロスオーナーシップの問題点は、人々が一面的な視点になってしまうことである。

我々の社会は安全かというと、体感危険度のみが上昇し、数値的には事件数が減少しているのが事実である。世論調査は、誘導尋問でゆがめられてしまっているのだ。

そのため、この時代においては自分の価値観、信念をしっかり持つことと、固有の視点を一人一人がもち、多面的な見方で問題を見つめることが大切である。

多くの人が同じ価値観を共有すると社会統合の促進、統治の正当化が行われる。単なるマスメディアの意見や願望がアナウンスされ、世論操作されるのがよい例である。ベトナム戦争でアメリカが敗戦したのはペンタゴンペーパーズやニューヨークタイムズ紙の力が大きかったためといえる。

世論は知識をもつ関心層、他に追従する中間層、知識をもたない無関心層に区分できる。だから世論調査を鵜呑みにしてはならないのである。報道は中立公正であるべきである。

戦争体制下では言論体制の一元化がおこなわれていた。講義では、中央公論社石川達三の『生きている兵隊』を取り扱った。この小説では検閲による伏字、また発禁が行われた。それによって南京大虐殺の事実が隠され表象されないという問題があった。くわしくいうと、情報操作により、知らないことをしらない、気づけない状態もしくは知らないことを知っている状態になることである。そうするとあきらめの感や口にしてはいけない、いわゆるタブーが社会に広まり、無力感社会が構築されてしまう。

また、講義では水爆大怪獣映画『ゴジラ』を扱った。敗戦からほどない時期であるということはもちろんだが、冷戦と核開発競争、朝鮮戦争、すでに始まった日本の再軍備など、当時の日本を取り巻く状況は戦争への危機感を募らせるに足るもので、それが反映されているといえるだろう。「ゴジラ」が核批判をもとにした作品であるという評価は定着しているが、核をも含む「反戦」の思想を見出すべきであろう。

なお、ゴジラオキシジェンデストロイヤーという秘密兵器によって最期を遂げる。「水爆大怪獣」を超越する兵器の登場は、あたかも核抑止論のような発想である。その後の世界の流れを予見していたかのように思えてならない。

また、この映画には戦後の女性表象が登場する。戦後の女性解放により自由恋愛ができるようになった女性、政治で活躍できるようになった女性が本編にはでてくる。女性は公私ともに自由になったのである。

また、人を救うために正当化される発明品や、原子力エネルギー開発の問題も浮上する。

原子力発電に関しては、教科書問題を講義では扱った。国や電力業界は七十年代後半から一般大衆向けの原発PRを本格化させ、そのターゲットの一つとなったのが子供だった。

また、電力業界は漫画家ともつながりをもった。しかしその中で手塚治虫は自身は原発反対派なのにもかかわらず、漫画を無断利用された。手塚はまた鉄腕アトムに関しては「ひたすら進歩のみを目指して突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、差別を生み、人間や生命あるものを無残に傷つけていくかを書いたつもりです」と言っている。

 また小中学生向けの教科書は公正さに課題があるとされる。

 表象がいかに広まるかは経済にかかっている。

 現代美術(=COMTEMPORARY ART)とは、その時代における出来事をアートで表現することである。

表象と私たちと世界

表象=representationとは、ジーニアス和英辞典によれば表現(する「される」こと)、表現[描写]した[された]もの、記号、代表(する[される]こと)、代理(権)、陳情、抗議等、様々な意味をもつ。記号論で言えば「表象されるもの」と「表象するもの」である。「表象されるもの」とは心に思い浮かべる像、「表象するもの」とは作品のことだ。記号とは意味するもの、すなわち表現、意味されるもの、すなわち内容のことである。意味するものは表象をみる人の心に浮かぶものなので、どこにも現実は存在しない。表象≠現実なのである。

表象は五感で感じとるものである。大まかに音楽等の時間表象と絵画等の空間表象がある。こういったメディア=媒体は昔と今で大きく形態を変えている。昔はレコード等、私達は生で触れる事が出来たが、今はテクノロジーの進歩により需要が容易になり「再現」が可能になったといえる。レコードからCDへの移り変わりがその例である。

このように現代社会は時間メディアに囲まれている。同じ時間に同じ感性を揺さぶられる多くの個人はもはや大きな一つの共同体である。その中で批判的に表象を分析し、時々周りを見渡して自分がどこにいるのかを知り、自分という存在を見失わないことが私達の課題である。

人の体は前後、方向=センスをもっている。これらは私達の世界を決めるものだ。

だが、カメラの視点は私達に見ることが不可能な世界をみせてくれる。その技法としてモンタージュがある。これは単体の写真等を組み合わせて新しい意味を生み出すことである。

普段の私たちは主体から客体をみているが映像を見た時はその逆になる。映像は世界の再構築を訴える。その時私達は「私」「今」「ここ」といった認識の原点に立ち返ってみるのである。授業ではコマ撮りの映像作品である伊藤高志のイルミネーション・ゴーストシリーズの“SPACY”を取り扱った。

芸術という領域は1.文芸2.音楽3.絵画4.演劇5.建築6.彫刻7.舞踊8.映画とされている。

近代は遠近法でものを把握していたが、現代になり複製技術により映画が登場し「オリジナル」という唯一の、真正の作品という観念が消失する。

映画の文法とはアングル、フレーム、モンタージュ等である。授業では「アメリカン・シネマ“ハリウッドスタイル”を扱った。

「分かりやすくて面白い映画の文法」とされるハリウッドの手法は、技術や撮り方は観客の目に触れないようにし、カメラの動きと俳優の表情に配慮する方法をとる。

ハッピーエンドでないのが名作とされ、編集、撮影、脚本の技術をここで確立する。あらゆる点が事前に決定されていることを特徴とする。技法としてはMTVカット等があり、シネマスコープに適用されていた。ストーリーの特徴としては、一人称視点で語られ身分差の恋が度々登場するということが挙げられる。世界中の誰もがヒロインとヒーロー、どちらか若しくは両方に感情移入することを狙っているのだ。授業では「VISION OF LIGHT」を扱った。

表象には女性も含まれる。なぜ女性なのかという問いに対しては、一般的に社会的地位が低く弱い存在であると捉えられがちな女性にスポットライトを当てることで、普段隠されてしまう女性の意見を表向きにして女性の人権、存在について主張し人々に考えさせるためであると私は答える。

女性の描かれる対象としては無垢、優しさ、弱さ、というイメージをもつ「聖母型」と汚れた女性という「勝負型」がある。そして男性という存在と対比すれば力を行使できる側とできない側、と表現することもできる。授業では性差、人種差、階級差等のテーマを含む題材として「ひめゆり戦史 いま問う国家と教育」を扱った。

主体であり対象でもあり表象でもあるものとしてパフォーマンス・アートがある。授業ではイトー・ターリの「ひとつの応答」を扱った。この作品は朝鮮人慰安婦を題材に日本人が表象しているものだ。日本と女性の在り方を問うている。

ジェンダーとは文化的性差、セクシュアリティとは性意識のことである。イトーのテーマは広い表皮、「内と外」である。表皮は内と外の境界、彼女にとっての「内」とは同性愛のことである。

このように内と外、つまり内なる個人と社会的規範にずれがある人は生き辛く、自分自身の価値に悩むことが多い。他者に認めてもらうことが出来ればよいが、それも叶わず自己肯定できないと他者否定に走ってしまう。

ジャーナリズムも表象のひとつである。選挙では民意(=世論)を歪めて表象していることがあり、私達はそれに表象されないよう利用されないよう心掛けるべきだ。

このように、現実と私達の仲立ちをしてつなぐ役割をするのがメディア=媒体である。

   「表象の持つ力の渦」

 表象は人々、この世界にとってなくてはならないものである。故に、この世界から無くすことはできない。

しかしながら、その表象も問題をかかえている。それは、まず力を持ちすぎることがあるという点である。表象の持つ力に呑まれ、自己をありのままに表象できない人々がいる。ジャーナリズムの例を挙げれば分かり易いだろう。政治は多数決で決まる。

だが、そうして決められたものが正であるとは限らない。

そして大衆文化が発信する娯楽もまたその類である。流行しているからといって何の考えもなしにファッションを取り入れるだとか音楽を皆で聞くというのは危険である。わたしたちはそういったものに惑わされて自己を見失ってはならない。なぜなら、そういった大きなメディアの陰には大きな支配権力が及んでいる可能性があるからだ。気づいたときには私達は個性を失い、ひとつの無個性な共同体になりかねない。外見を取り繕うばかりで中身の無い状態になってしまう。

そもそも個性とは私たちの「内」から滲み出るものである。前述のような無個性な状態にならないためにはどうすればよいか。その答えは、自己を確立するということである。

そのためには、一つのものに囚われず様々な表象を吟味したうえで、自分とつながりのあると感じ取れるものを模索して、それに自分の姿というものを見出せばよいのではないだろうか。

 次に、媒体によって対象の受け取り方が異なり、当初の目的とは違う方向に広まる可能性を持つという点である。表象を受け取る対象、つまり人々も媒体となり得る。

しかし人々はひとりひとり異なる存在なので解釈の仕方、広め方も変わってくる。

抽象的な例えだがここに「林檎」があるとしよう。そして、人々がその「林檎」を立って見つめている。人々は目の前の「林檎」がなんであるのかということを知らないという前提で考えてほしい。ある人は齧ってみて美味しい、と味覚で感じ空腹を満たすため独り占めするかもしれないしあるいは仲間に配るかもしれない。ある人は視覚できれいだ、と感じ絵に描くかもしれない。重さを量る基準にする人もいるかもしれない。(キティちゃんの体重は林檎の個数で公表されている)

このように、人々によって感じ方、そしてそれをどのように利用するかは異なってくる。

これを表象に当てはめた時、問題が浮上する。

表象は悪用される可能性ももっている。映画の例でいえば映画は元々エンターテイメント的側面を持っていたが、人々を感化させやすいということでヒトラーの宣伝(ニュース映画)にも使われた。

 最後に、表象は理解しにくいという問題があるがこれは特に気にする必要はない。表象とは、なかなか言葉に置き換えるのは難しい。

置き換えられたとしても、それが作者の意図していることと合致するとは限らない。表象に触れ、感じ、私達の心が揺さぶられたなら、それだけで十分なのである。

『ペルソナ』(多和田葉子)論 

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まず「ペルソナ」という言葉の意味が気になって調べたところ、次のような説明が出てきた。

「本来の意味は俳優のかぶる仮面。そこから奥にある実体を意味するところになり、個的人格personの意となる。キリスト教神学におけるペルソナとは、三位一体論に関して、神の唯一の神性の中の三つの「私」といえる基体の意であり、客観的に一個のそれ自体で完結している全体、直接神に向かって作られた唯一のものとして、それ自体で完成した理性的な単一実体substantiaを意味する。これはテルトゥリアヌスによるとされ、以後この語は西欧神学、哲学において、認識と愛とを備えた精神的実体の意で用いられた。ユングの心理学では、表に現れた仮面として、社会的なパーソナリティを意味する。」

(ブリタニカ国際大百科事典より抜粋)

 様々な定義があるが、作中においては、「仮面」としての意味と、「社会的なパーソナリティ」という二つの意味で用いられていると思う。それを裏付ける部分を以下に抜粋する。

「深井の面を壁からはずすと、そっと自分の顔に被せてみた。それから玄関の等身大の鏡に自分の姿を映してみた。すると急に自分のからだが大きくなったように感じた。今まで顔に圧倒されて縮こまっていたからだが、急に大きくなったように見えたのだった。しかもその仮面には、これまで言葉にできずにいたことが、表情となってはっきりと表れているのであった。」

 主人公道子は日本人で異国のドイツに学者として学び、精神病院に通っている。ドイツの中の日本人(東アジア人)、また健常者の中の精神病患者(?)という「普通の中のイレギュラーな存在」として作中では描かれている。道子の病気ははっきりとは記されていないがノイローゼではないかと推測する。なぜノイローゼになったのかは、自分と外界とのギャップが強すぎて、またはそれを気に病みすぎてなってしまったのではないだろうか。作中にも「普通とはどういうことかと尋ねられるとカタリーナにも全く見当がつかないのであった」とあるように、イレギュラーな存在である道子は「普通」と「異常」のボーダーラインを引くことに疑念を持っていることが伺える。そして自分が異常の側にいるのではないかと感じ、それを隠すために周囲と上手くやっていくために仮面を被る。しかし私は異常とされるのは道子だけではないと思った。一見普通に見える佐田さんや山本さんも社会のコミュニティに馴染む為に仮面を被っている。そのため考え方によっては「人間は皆異常な部分を持っていないと生きていけない、ありのままで生きていくことは叶わない」というように考えることが出来る。また「人を外見や印象だけで判断するのはおかしい」というのも、皆が自分を取り繕って生きているからである。最後の場面で「金龍」という店がでてくるがこれはセオンリョン・キムをおそらく意識している。初めの場面で道子が彼に好意を抱いたのは自分と似ているからである。この物語が伝えたいのは普通を定義づけることへの批判であると私は思う。

『乳と卵』(川上未映子)論 

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  1. 序論

川上未映子「乳と卵」における中心と周縁の構造はどういったものなのか。また異化の手法はどのように取り入れられているのか。本作品の主題は何であるのか。「乳と卵」という題名に込められたメタファーを考察し、論じる。

〈あらすじ〉

母親の巻子と関係が上手くいっておらず、会話の際筆談をするその娘の緑子が二人で伯母である「わたし」のもとへ滞在しに大阪から東京へやってくる。巻子は以前より豊胸手術を希望しているが緑子は内心そのことに疑問を覚え、奔放な母親の姿を見ていた彼女は自らに初潮が訪れる、つまり大人になることに強い嫌悪感を抱き「厭」と表現する。滞在中に巻子が元夫を訪ねて泥酔して帰ってきたことで緑子は内に抱えていたものが溢れ出し、玉子を手に取りそれを自らの頭に投げつけた。そのことによって巻子は大切なことに気づかされ二人は和解する。

  1. 本論

ⅰ)中心と周縁の構造について

まず「多様な登場人物は物語の進行を促す7つの機能に分けることができ」、語り手は「わたし」であるが、この論では緑子を中心に据え「主人公」とし、「わたし」を「助手」、巻子を「贈与者」(良いものも悪いものも与える)と位置付けて考察していく。

 この物語では世間の認識の中では「普通(本文では、「ほんとうのこと、例えば緑子の周りの胸の成長を自慢する少女たち」)」とされる中心が「異常(本文の緑子が自らを「厭」と表現することから)」とされる周縁を取り巻く形で存在している。しかし世間の中心と周縁、緑子の認識の中の中心と周縁は真逆である。まず、「物語の語り手は、自分たちを世界の中心とみなし、周縁にあるものを彼らとして位置づけ」るため、緑子の中では中心は緑子自身で、周縁は少女たちである。また「『中心』には、「主流」「公認」といった点が認められるのに対し、「周縁」には「不当」「混沌」という要素が認められるのが強い」ことから、「正当」とされる中心の考えが間違っていると感じているのに、緑子は自身が不当であるとされているような感覚を覚えることに「厭」と表現しているのだ。巻子も胸の大きさを気にして世間の中心側に初めはいたが、緑子の玉子を浴びる場面での告白によって周縁側へと移動する。

ⅱ)異化の手法について

 本書p9作品冒頭より。「卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです。図書室には何回か行ったけど本を借りるための手続きとかがなんかややこしくってだいたい本が少ないしせまいし暗いし何の本を読んでるのんか、人が来たらのぞかれるしそういうのは厭なので、最近は帰りにちゃんとした図書館に行くようにしてる。」

この箇所の特徴としては一つ目に一文が長く読点が多用され、鉤括弧があるべく所に無いことが挙げられる。二つ目には、関西弁特有の表現と敬語が交じっていることが挙げられる。一つ目の特徴は講義で取り扱った作品「三月の5日間」にも共通してみられたものであったが、ここからは語り手の曖昧な思考、人間の整っておらず完璧ではない、リアルな話し方、が表現されているが語り手(初潮を迎える少女=緑子)の思春期の不完全なアイデンティティを読み取ることができる。二つ目は東京の人間とは異なる関西の独特な雰囲気が演出され、この特徴は他の川上の作品にもしばしばみられるが、このことは川上が大阪出身であることに由来すると考えられる。また巻子の元夫が「嘘くさい標準語」を話すと本文にあり、東京の言葉が「標準(普通)」とされるが対する関西弁にすることで母娘の「普通でない」(とされてしまう)という位置づけを強調するという川上の意図も読み取れる。

ⅲ)主題について考察するためのヒント

巻子は豊胸によって失われた女性らしさを取り戻したいのでなく、緑子との関係から目を背けたいのではないかと考える。p36の緊張しながら話す巻子の様子やp39「なんだかそもそもわたしが見えてすらないような感じ」で話す姿がその理由である。

筆談の持つ意味について考察する。緑子は言葉を本作品の殆どの場面で発さないが、言葉で表現しきれない体の動きや体温、空気、感情などを効果的に表現するためであると考える。(cf.これは吉本ばななバブーシュカ」、講義で扱った「三月の5日間」にも見られる技法である)

p40「その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもう私たちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産物でしかない」「そんなことはない」と「わたし」の記憶の中で二人の女性が言い争う場面があるが、ここからは「物事に正しいことや間違いは決められていない」という作品のメッセージが読み取れる。p101「ほんまのことってあると思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで。」という物語終盤の巻子の言葉の伏線にこの場面はなっているといえる。

p46「大人になるのは厭なこと」p99「厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でもおおきならな、あかんのや。」という緑子の吐露からは緑子の内面の葛藤、p97「ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん。」という「わたし」の台詞からは不器用で暴力的ではあるがありのままでぶつかった母娘のありようが読み取れる。

p59「乳首から、何もかもが出て行ってしまった。でもな、こうなるんよ。子どもをうんだらば人は。」「何もないねん。ここにはもう。」という巻子の台詞は子ども、つまり緑子を生んだことにより夫や様々なものを失ったと思い込み自らに向けて目を向けない巻子の「逃げ」の姿勢、弱さがうかがえる。

ⅳ)題名に込められたメタファーについて

 題名の「乳と卵」の「乳」は巻子の豊胸手術から、「卵」は初潮を迎える緑子の卵子からの連想である。また母親である巻子とのぎくしゃくした関係により内側の「殻」に引きこもっていた緑子が、東京での3日間によりその「殻」を壊し外側の世界を知るということから「たまご」としての意味も含まれている。それはp25の「緑子は人に自分の体がちょっとでも触れぬように警戒というか、見えぬ膜のなかに自分を入れて少しずつよじらせているように見えた」p32「こんな体があって、その中に閉じ込められてるって感じる」p84「ここの写真の女のひと、たまごみたいな顔してる」p98「玉子を右手に握ってそれを振り上げた。」という表現に象徴的に現れている。p98の緑子が玉子を落として自分の頭に浴びせる場面では、「玉子が割れる」ということが「緑子の内面の殻(膜)が割れる(破れる)、つまり成長、和解ということのメタファーになっている。

  1. 結論

ⅰ)中心と周縁の構造については、以下のように考えることができる。

中心は緑子と巻子、周縁は緑子の周りの少女を代表とする一般化されている考えであり、そことのズレに二人は苦しんでいた。

ⅱ)異化の手法については、以下のように考えられる。

読みずらい文体は登場人物の混沌とした内面を表現するためのものであり、意図的である。

ⅲ)物語の主題については、以下のように考えられる。

主題は「物事には善と悪、正と誤は決められておらず、属する世界によってその判断は異なってくる」ということである。(本文の元夫が「緑子を作ったのは意図的でなかった」という台詞から、生きていることに意味はみんなもっておらず、生き方にそれぞれ正解はない、という絶望的で諦観しているものの前向きになれる見方も裏にあると私は考える)

ⅳ)題名に込められたメタファーについては、以下のように考える。

「乳と卵」の「乳」は子どもが生きるために不可欠な母乳(生のエネルギー)が詰まった胸、「卵」は一つ目の意味として卵子、二つ目の意味として膜をまとった、内側に子どもが宿り、いずれその子ども自身の力によって割られるもの、つまり成長するもののメタファーとしての意味が込められている。

 

  1. 参考

日本文学特講Ⅰ【10】講義プリント

川上未映子(2010)『乳と卵』文春文庫

浅野直樹/榎吉郁夫(2012)『現代文キーワード読解』Z会出版

 

『ノルウェイの森』を精神分析学の観点からみる

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まず、本論において扱うキーワードの定義をいくつか確認しておくとする。

ナルシシズムとは自分自身を性愛の対象とすることである。

 死の欲動とは、デストルドーともいわれ、死へ向かおうとする欲動のことである。自我が抵抗しがたい欲動であり、衝動の存在に自我が気づきにくい無意識的なものであり、対象に備級される。しかし多くなるとサディズムマゾヒズムとして現れる。

 精神病の患者自身を破壊する幻聴などの源泉として死の欲動が援用される。無意識的な自己破壊・自己処罰傾向である。

(参照:Wikipediaより)

リビドーとは、フロイトによって提唱された概念であり、人間の性本能の基底となるエネルギーである。その発達は口唇期、肛門期、男根期、潜在期、そして思春期の性器期へと展開するが、それぞれの段階に応ずる性感帯、充足の目標、対象をもつとした。(参照:『百科事典マイペディア』コトバンクより)

 また、同一化とは個人が人格(自我・超自我)を形成する基本的な機制で、他者の諸特性を自己のものとし、それにしたがって変容する心理的過程をいう。個人の現在の人格は過去の一連の同一化の集積であるといえる。

 つまり、対象が感じ、考え、行為するのと同じように感じ、考え、行為することをいう。これは安定を得ようとする防衛機制の一種であるといえる。

 同一化は対象選択が破たんし、対象喪失によって心理的に退行した時に起こるものであると考えられる。

(参照:『世界大百科事典』コトバンクより)

 

 次に、あらすじを追っていきつつ考察を展開する。

  ギリシャ悲劇についての講義の場面で、「愛する者に愛されないという一方通行の悲劇」という台詞が登場するがこれはこの作品全体を通しての主題を表しているといえる。

 その後ワタナベは「僕の人生は読み漁っていた本の余白の様に空っぽだった」という言葉で自身の大切な者を失った喪失感を表現している。その喪失感や虚しさを埋めるためか、女たらしの永沢という男とつるみ、女遊びに出かけるようになる。永沢については尊敬の念のようなものを抱きながらも一方で「どうしようもない俗物」とワタナベは形容しているが、そこに自分自身の姿も投影しているのかもしれない。自身もそのような存在であると認識しつつ、心の空虚感を埋めるため、女遊びに耽るように他者に性欲(リビドー)を備級することで心の安定を図っているといえる。

 次の場面でワタナベは直子と東京で再開する。そのとき直子は「上手くしゃべることが出来ないの」というが、これは直子の精神状態がキズキを失ったことで傾きかけていることの兆候である。のちの「幻聴に悩まされている」という台詞から、直子はおそらく統合失調症であると推測することができる。直子とワタナベは二人で週に一度会うようになり、その時に過去や死んだキズキの話はせず、親密な関係を深めていく。「二人で公園で会って歩き回った。まるで魂をいやす宗教儀式のように」という台詞からもその様子はうかがえる。このことから二人がお互いに心を許せる相手を求めていることがわかる。

直子の誕生日に二人は直子の家で過ごすが、直子はキズキのことを思い出し泣き、直子の方からワタナベを求めてしまう。死んだキズキのことを想いながらもワタナベに寄りかかってしまうのは直子もまたワタナベのように他者にリビドーを備給することで心の穴を埋めようとしているのではないだろうか。00:22:30の場面でワタナベは直子に「キズキとは(行為を)したくなかったの?」と聞いてしまうが、のちの場面で直子の告白によって理由が判明する。そしてワタナベは「あの気持ちは僕が今まで感じたことの無いものだった」と言い今までの遊びとは違う本当の恋心を自らに中に見出し認識する。しかし、直子は誕生日の出来事がショックだったのか引っ越してしまう。

それからしばらく経ち直子から手紙が来る。そこには「文章を書くまでに長い時間がかかりました。…療養所に行こうと思います。あなたが私のそばにいてくれたことに関しては感謝しています。あなたがわたしを傷つけた訳ではありません。私が傷つけたのは私自身です。」と書かれていた。

00:40:26の場面では、手紙を受け取ったワタナベが直子に会いに行く。手紙には「担当医はそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だといいます。わたしにはあなたの顔以外思い浮かばないのです。わたしはあなたの好意を感じているしそれを嬉しく思っています。」という記述があり、表面上は直子もワタナベに好意を持っているように思えるが本当のところは疑わしい。自分の存在理由を確認し自分の心の安定を得るためだけに自分に好意を寄せ、必要としているワタナベを利用しようと書いているように考えられる。これは相手のことは考えず自分のことしか頭にない状態であり、自分が一番大事である心情だといえる。ここからナルシシズムの表出を読み取ることができる。

00:51:42の場面では直子はワタナベに接吻を迫り「私のこと好き?」と尋ねそれに対しワタナベは「好きだよ」と答える。しかしその答えが気に入らなかったのか直子はワタナベから体を離す。その後「死んだ人は死んだ人だけど私たちはずっと生きていかなきゃならないから」と言い、キズキと寝なかった理由を語り出す。

「私、キズキくんと寝たいと思ってたの。彼もそうしたがってた。…どうしてもできなかったの。…愛してたの。でもダメだった。…あなたと寝た時私凄く濡れてた。…どうしてそんなことが起こるのよ。だって私はキズキくんを愛してたのよ」それに対してワタナベは「僕のことは愛してなかったのにってこと?」と尋ねる。それに対し直子は「ごめんなさい。キズキくんが死んだあと人とどう接すればいいか分からなくてどう人を愛せばいいかもわからなくて」

この台詞の応酬からわかることは直子がキズキと寝れなかった理由は直子の一時的な不感症にあるということで、その原因はリビドーが自身に備給されていたこと、つまりナルシシズムにあるのではないだろうか。リビドーを他者に向けられないために不感症に陥っていると説明することはできないだろうか。

01:32:40では直子がついにワタナベとも寝れなくなる。リビドーを備給する対象を失った直子はワタナベに対し「私みたいな人間に関わらないで。…あなたの存在が私を苦しめるのよ」と言い放ち、別れた後、幻聴がひどくなったと手紙でワタナベに知らされる。この言葉の意味する所は「ワタナベが存在することでキズキのことを思い出す。また、キズキとは寝れなかったのにワタナベとは寝れた不純な自分という存在を認めざるを得ない。そのことが苦しい」といったところだろうか。この後直子は死の欲動に駆られ自殺する。その在り様はまるでギリシャ神話の自分にリビドーを備給した末に死んだナルキッソスのようである。精神病患者にナルシシズムの傾向が強いのは自分の世界に引きこもり愛の対象選択が上手くいかないからだと考えられる。認知の歪みが起こり相手の本来の姿に目を向けず、自己の妄想にリビドーが向いているのである。妄想の中の他人を愛することで自分の存在を認め自己のナルシシズムを満足させているのである。

01:45:41ではワタナベが緑に対して「君のこと大好きだよ。…人としての責任があってそれ(直子)を放り出すわけにはいかない。彼女が僕を愛してないとしても」と言っている。この場面から直子に対するワタナベの見方が少し変化しているように思える。「愛する相手」から「恋愛の対象ではないが、それを越えた精神的な絆で結ばれている、守らなければならない人間」に変化してはいないだろうか。

02:02:56の場面は、ワタナベの緑に対する「君以外に求めるものは何もないよ。愛してる」という台詞で幕が閉じられる。リビドーがやっと特定の相手に注がれて精神的にも安定が図られたように思える。

永沢とハツミについて補足する。永沢は結婚をするつもりはなく、気儘に遊んでいられればいいという男で、ハツミはそのことを理解していながら彼についていくという人物として描かれているが、彼女は物語の中盤で他の男と結婚するものの、自殺してしまう。

これは前述した「一方通行の愛の悲劇」であると思う。

ワタナベから直子に対しての愛情もそうであるといえる。

このように、ハツミやキズキ、直子など主人公であるワタナベの周りには「死」の気配(死の欲動)が立ち込めている。そのような中で「死」の気配に取り込められそうにワタナベはなるが、緑という一人のお互いに相手を思いやる正常な愛を育めるパートナーを見つけてこの物語は完結するが、その直前に療養所の女性レイコと寝ている。レイコから誘った形ではあったものの、ワタナベは断らずに寝てしまった。このことからワタナベは今後性欲のはけ口にされてしまう可能性も考えられ、また逆に別の女性(充足の対象)を自分の性欲のはけ口にすることも考えられないことはない。この物語はハッピーエンドだと簡単に片づけられる物語ではない。

 

参考

ノルウェイの森」 トラン・アン・ユン監督

比較文化 講義配布資料

精神分析学入門 講義配布資料

「リビドー(リビドー)とは - コトバンク

https://kotobank.jp/word/リビドー-149263

「同一化(どういつか)とは - コトバンク

https://kotobank.jp/word/同一化-337820

デストルドーWikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/デストルドー

 

 

野生展 飼いならされない感覚と思考

この展示における「野生」の定義とは、私たちの心の中に眠っている、飼いならされていない、管理されていない、何者にも囚われていない自由な領域のことだ。これが目覚めることによって私たちは新しい分野において活躍をすることができる。

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Between You And I  あなたに続く森》 (青木美歌)

木々、花、それに誘われる昆虫、それを分解する菌類。そして水、空気。これら食物連鎖の関係が一連の作品になっている。水や空気は生き物の体内を循環し巡る。生き物も自然の中で食べ、食べられ世界を巡っている。生き物の究極のかたちは水と空気なのかもしれない。純度の高い生命の形をガラスという手法によって表現した作品。

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土偶》《埴輪》

「かわいい」は縄文時代から存在してきた概念である。自然と文化の中間や水の世界と陸の世界の中間、生物と死物の中間、つまりどこの領域にもカテゴライズされない存在をかわいいと呼んできた。日本人は古来から未来まで「かわいい」を追求し続けるだろう。

土偶は豊穣を祈るための偶像であると同時に、女性的特徴をとりだした、まさに「かわいい」の化身なのである。

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《木彫りの熊》

熊は自然においては人間よりも大きく凶暴な生き物として知られている。しかし、プーさんやTED、テディベアなど「かわいい」存在としても親しまれている。消費社会において「かわいい」、自然界において畏敬の念を払われる二つの側面をもった動物。木彫りの熊は農村で副業として生産され始めたものだ。

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《タイトル不明》(ステファニー・クエール)

粘土から生み出された動物のオブジェ。「土」という自然の素材を使用することによって生まれる動物たちは躍動感にあふれ今にも動き出しそうな空気を湛えている。素材には粘土だけでなく人工物も用いられることがあり、文明と自然の両義性を感じ取ることができる。