お茶漬けのしみとふるーつ寒天

お手紙風ブログ。それから本と映画、デザイン、アートとなんやかんやを赤裸々に。

一人旅紀行 神様のいる場所 伊豆 一日目

久しぶりの旅に私の心は浮足立っている。

普段忙殺される日々に追われている私は、伊豆行きの切符を手に取りローカル線に乗り込んだ。

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旅の玄関口は三島。

初めに、パワースポットとして有名な三嶋大社に足を延ばした。

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鳥居をくぐると静謐な空気に包まれていた。朝早かったこともあり人気がなく、ああここは聖地なのだと感じられた。中は鬱蒼と茂る緑に覆われ、八月中旬の暑さの中でその空間だけさわやかな風が吹いていた。

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手水を手に取り水を手にかける。三島の水は冷たく私の手を癒してくれた。この水は富士山から繋がっていたりするんだろうか。水をかけ、不浄なものを流し手を清めた後に、本殿へと向かう。

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律儀に参拝の仕方をスマートフォンで検索し、神の御前で仕事が上手くいくよう祈る。

「仕事がうまくいきますように。あとそれから、健康にいつまでもいられますように。平穏に過ごせますように。あとそれから……。あ、やっぱり欲張りなのは良くないので仕事が上手くいけばひとまずはそれで充分です。お願いします」

まるで知り合いに語り掛けるような口調で神様にお願いした後、一番会いたかった生き物を探しに歩を進める。

地図を見ながらその場所を目指すと広めの柵の中に彼らはいた。

鹿だ。看板の説明によると、春日大社からもらい受けてきた鹿らしい。彼らは奈良出身なのだ。

柵の中には三匹ほどしか鹿はいなかった。木陰の下で、気怠い表情を浮かべながら、カメラを向けるとやはり気怠そうにこちらをじっと見つめてきた。

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「ニンゲンや。こんな暑い中こんなとこよう来たなあ。なんかカメラ向けてきとるし暇だし相手するかあ。っかぁ~たり~。動きたくねぇ~。暇~。なんやねんこの暑さは~。アホちゃうか~。カメラ向けてるお前もアホや~。もうニンゲン皆アホや~。こんなとこに閉じ込めおって~。紀伊の森に帰りたいねんアホ~」

なんて声が聞こえてきそうなほど気怠そうな顔をしていた。木陰の下で涼をとっていたあいつは、絶対人間でいえば中年に差し掛かったおっさんだな、そんなことを考えながら三嶋大社を後にした。

 

 少し歩を進めて、目的の雑貨屋へと向かう。小さなアパートの一室にその店はあった。狭くて少し急な仄明るい階段を上がり、扉を開けた。開けると、狭い空間の天井にドライフラワーが下げられていた。ドアの向こうにドアがあるなんて、秘密の隠れ家みたいだ。どんな空間が広がっていてどんな人が営んでいるのだろう。もう一つ扉があったので期待を抱きながらドアノブを捻り中へと入る。

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 開けると、電気はついていないが光が差し込む明るい空間が広がり、奥のほうから「いらっしゃいませー」という女性の声が聞こえてきた。

店の名前は「sora」。中は白いアンティーク調に剥げた壁が張られ、ギャラリーが広がっていた。作家のつくった陶器や金古美のアクセサリー。花を模した彫金。そんな作家の手から生まれた品々が棚の中に静かに佇んでいた。

都会のカラフルな色に囲まれた雑貨屋とは違い、色彩は薄い。だけど、落ち着く。早朝の薄明るい空気の中にいるような気分になった。森の中の朝の澄んだ空気がそこには流れている。そんな雰囲気だった。

センスのいいものに囲まれ、それを買わずとも眺めているだけで気分は良くなる。それでも、迂闊にも一枚の皿に愛着を感じてしまった。そして、長崎の作家によって生まれた黄橡色のシンプルだけどかわいい皿を手に取り、買ってしまった。それからお店のオーナーからここらへんは地形が面白くて、溶岩の跡が町の中に残っているんです、そんな説明をきいて店を後にした。

          *

 

 クレマチスの丘を目指して、三島駅から裾野へ無料送迎バスで向かう。

まずは「IZU PHOTO MUSIUM」へ。

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星野道夫展が開催されていて、あ、この人の写真すきだな、と感じた。野生の中で生きる動物たちの一瞬一秒を切り取った一枚の紙の中に壮大な生命のドラマが広がっていた。

星野道夫。動物写真家としての一生にすべてを捧げ、動物たちと同じように自然の中で生きたひと。最期はヒグマに襲われて亡くなってしまった。命を賭して遠くの世界で生きる人々に感動を送り届ける仕事。自然に選ばれた者だけが、その仕事に就くことができる。そんなイメージを感じ取った。自然のありのままの色彩がそこには写し取られていて、地球にはまだこんなに美しい世界があることに安堵するとともに、自然が貴重だから持て囃されることにすこし悲しくもなった。そんなことを思ってみても、私たちは業を背負って生きていかなければならない人間だ。生きるしかないなら、自然のために少しでも貢献していくしかない。そう思った。

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ヴァンジ彫刻庭園美術館の中へ。彫刻たちの顔はどれも間の抜けた、でも優しそうな顔立ちだった。アニメのおどけた顔立ちと、躍動感のある造形美が一体となったような不思議な世界の住人たち。入り口の通路に光がさしていて思わずカメラを向ける。通路に生けられていた花にもシャッターを押す。カメラの設定そのままで撮ったけれど、絵画のように撮影できた。

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「ミテクレマチス展」が開催されていた。ネーミングに笑ってしまったが、作品はどれも素敵だった。館内に隠された蓮の花の彫刻を探しながら鑑賞するというスタイルで、製作者のお茶目さが垣間見れた。

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小腹がすいたのでピザの店「CIAO CIAO」へ。「パターテ」というアンチョビ、ジャガイモの入ったピザと、「プラーニャ」というノンアルコールの梅カクテルを注文する。名前がオシャレすぎて何が何だか、と思いつつ、待つ。運ばれてきたピザは、直径30㎝だった。気にせず、タバスコをかけて完食。一句。

「一人旅、 女子力それは 忘れたよ」

 店員のおじさんが、メニュー要りますか?あ、でももうお腹いっぱいですよね......、と私に声をかけた。へへ……。おいしかったです、ごちそうさまでした、と告げ、店を後にした。

 

          *

 

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 沼津へ向かおう。と考えるも、やっぱり思い残したものがあって再び三島へ。

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目指したのは源平衛川。電車を使い向かう。駅からしばらく歩くと、そこは水遊びをしに来た子供たちで賑わっていた。その中に紛れ込む、今年24歳の一人の女。しかも水浴びする格好でなく、両脇に重そうな荷物を抱えている。川に落ちそう。我ながらプチ不審者だったと思う。それでも、カメラに景色を収めたかったし、ちょっとだけ童心にかえりたかった。暑かったし、水にふれたかった。旅は人目を気にするという文化的に生きる人間の本能を消し去って心を解放してくれる。今私の心は生まれたままのはだかんぼ。すんばらしい!そう言い訳しながら奥へ進んでいった。

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石渡りするなんて何年ぶりだったかわからない。水はとても澄んでいた。入り口は子どもたちの声で賑わっていたけれど、奥のほうは人が少なく、水の音がした。さわさわ。木が日の光をさえぎって涼しさをもたらしてくれている。街中にこんな場所があるなんて羨ましかった。


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次に目指したのは、柿田川湧水群。柿田川の水は、ランクで言うと一級なのだそう。富士山と繋がっているらしい。流域には、カワセミゲンジボタルなどなどが生息するそうだ。湧き水を見に行くと、吸い込まれてしまいそうな碧さだった。日の光が差すと碧がかった青色になり、とてもきれいで15分ほど見入ってしまった。

 

           *

 

 ようやく沼津へと向かう。深海水族館に行ってシーラカンスの標本やダイオウグソクムシを見たかった私は閉館に間に合うように急いでタクシーに飛び乗った。運転手さんが近道廻って急ぎますね、と言ってくれた。

そして、水族館についた。

私の目に入った「本日は閉館しました」の文字。閉館30分前に入場できなくなってしまうらしかった。思い通りにいかないこともあるという旅の残酷さを噛みしめ、撃沈した私は夕焼けを見るために防波堤の方へと歩いて行った。

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日没を待ちながら、海辺を散歩する。港町の猫はふてぶてしくて、カメラを向けるとニャンだよ、という顔をしていた。潮風が心地よかった。夕陽が差してきたときにカメラのシャッターを押した。

その後、腹を満たすのが今日一日の最後に私に課せられたミッションだ、と思いまっすぐ「浜焼や しんちゃん」へと入っていった。

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お酒呑まないですけど大丈夫ですか、といって入ったけれど快く迎えてくれた。注文したのは蟹みそ、さざえの壺焼き、鯵のお造り、もずく酢、生しらす、そして深海魚のめぎす。深海水族館に行けなかった代わりに、深海魚を頼んでみた。どれも、地産地消の味がして、疲れた体に染み入った。おいしすぎた。めぎすは脂がのった白身魚で、また今度食べたいと思った。ここまでたどり着いてよかった。今日一日これを食べるために疲れたんだ、そう思わせてくれた。

その後、のんびりしすぎて終バスをのがした私は、またタクシーを呼んで宿のある修善寺に向かった。予定時刻を2時間30分ほど過ぎてから「湯の宿 花小道」へとチェックインした。

          *

 

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江戸川乱歩が愛した宿、というだけあって少し不気味な感じはした。何も描かれていない掛け軸の裏は捲らないでおいた。テレビもわざと「おしゃれイズム」をつけっぱなしにしておいた。貸し切り露天に入りたかった私は予約表に名前を書き、「星の湯」へ。天窓がついている露天で、小さな空間ではあったものの、落ち着いた。貸し切りで時間が限られているので、少し考え事をしてからさっと湯から上がった。もう一つの外にある「月の湯」に入れなかったのが口惜しかった。

インスタントラーメンを食べながら、明日の予定を立て、浴衣のかわいさにうきうきして……とそんなこんなしているうちにさっき感じた不気味さは感じなくなっていた。

夜食でお腹を満たし、予定も練り直すと私はテレビを消し、枕もとの明かりだけつけて今日一日目だけど最高だったなあ、と思いながら眠りについた。

 

長野まゆみ論 作風・文体について(卒業論文抜粋)

第二節 作風 

世界観について論じる。長野本人が『綺羅星波止場』のあとがきの中で初期作品について次のように語っている。(注5)

私の書いているものは児童文学ではないらしい
あいまいにしがちであった経験と創造の差異をあきらかにすることでもあり、夢だの無意識だのを気安く頼みにした反省を迫られもした。死を書くことにすら迷いのあった愚かさから脱却し、私自身が創造のみに信頼をおこうと強く確信した時期でもある。
手が届きそうで届かない。はっきりと見えるようで、摑みどころなく輪郭はぼやけている。そんな、世界を希んでいる。
また、「長野まゆみによる『新世界』解読マニュアル」(注6)の中で以下のように語る。
時代はない。いま書きたい場面を書くだけ
文体的特徴については以下のような記述がある。(注6)
意味がなくて発せられている言葉そのものが好きなんでしょう?(田野倉)
旧仮名も好きなところだけをまぜる。
発せられている言葉そのもの」の例を挙げると、人物の名前を複数並べ音で選んだり、地名からとるという方法をとられたものが多い。(注7)
例:シルル紀→シルル
  ツール・ド・フランスに出場した選の名前→ソレンセン
  フランス語圏の地名→イゾアール     
(『テレヴィジョン・シティ』より)


また、他の作家の文体と比べどれ程個性的なものなのか知るために本論の著者が独自に翻訳したものを以下に列挙する。

例:「水蓮の開く音がする月夜だった。
アリスは部屋の燈を消して月光の差す、織り模様のついた敷布の上に創り上げたばかりの石膏の卵を置いて眺めていた。」
(長野まゆみ少年アリス』)(注8)

“It was moonlit night that we could hear sounds that waterlilies bloom.
Alice put lamp in the room off.
And he put a plaster egg which was finished making just now on sheet that is varnished by woven pattern.
Then, he was gazing at it that bathed moonlight.”

ポイントとしては以下のことが挙げられる。
・英訳一文目に関して。「水」蓮という表記に合わせpond lily でなくwater lilyという表現をした。また、水蓮から鳥の姿の生徒たちが生まれるという設定から、単数でなく複数にした。花が開く=開花=咲くと考えopenでなくbloomにした。
・英訳二文目に関して。turn offよりやや文語調のput offを選択。また、アンティークのイメージのlampを選択。
・英訳四文目に関して。「月光が差」しているのは卵だと解釈した。
・原文の一文が長かったため、英訳は複数に分ける必要があった。

例:「制限時間、後五分。
それまでに何とかしねえとあいつらに負けちまう。
それだけは勘弁だ。」
(山田悠介『Aコース』)(注9)

“A time limit is only five minutes.
If I won’t manage to do anything by time, or I will lose a bet to them.
Anything but that. “

ポイントとして以下のことが挙げられる。
・全体的に原文が単純明快であるため、英訳も分かりやすいように短くした。

例:「呼吸はお線香から上る煙のように頼りなく、身体は白樺の小枝のように白くて細かった。
美しかったわけではない。」
(宮下奈都『窓の向こうのガーシュウィン』)(注10)

“Her breath was frail like climbing smoke from incense stick.
Besides, her body was pallid and thin like white birch’s stick.
She is not beautiful. “

ポイントとして以下のことが挙げられる。
・英訳一文目に関して。「弱い」と同義の「頼りない」という単語が無いため「ひ弱」という意味のfrailを選択。
・英訳二分目に関して。「白くて」を「寒い場所に生える木のようであり不健康な白さ」と解釈し、pallidを選択。

例「真夜中は、なぜこんなにもきれいなんだろうと思う。
それは、きっと、真夜中には世界が半分になるからですよと、いつか三束さんが言ったことを、わたしはこの真夜中を歩きながら思い出している。
光を数える。」
(川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』)(注11)

“Why is midnight beautiful so much?
I look back his words with me pacing around this midnight.
“I think, because the world get halved during midnight, certainly. “
Mr. Mitsutsuka said one day.
I count flickers.”

ポイントとして以下のことが挙げられる。
・英訳一文目に関して。純粋な感情を表現するため、また読者の情感を揺さぶる効果を狙い単純な文にした。「~と思う」を直訳するより疑問文にした方がより自問自答する主人公の姿を描写出来るのではないかと感じた。
・英訳二文目に関して。原文の時制は現在進行形だがこの部分は本編の前置きで、読者の想像力を掻き立てるための抽象的な部分、また主人公が日常的に繰り返している行為のため現在形にした。「歩く」という単語は「彷徨う」という意味のwonderが適していると感じたが、意味を含ませすぎてしまうため「ゆっくりと歩き回る」という意味のpaceを選択した。
・英訳三文目に関して。途切れ途切れのゆっくりと発話される言葉を表現するためカンマを使用した。「世界が半分になる」は「受動的に世界が割られる」というより「自然に世界が半分になる」というニュアンスで解釈し直訳した。原文では「きっと」という言葉が初めにきているが英訳では最後に置いた方が優しい雰囲気を出せると解釈した。
・英訳五文目に関して。flickerは「明滅する、希望などがちらちら見える、憎しみなどが徐々に消える、興味、興奮などのつかの間の高まり」という語義であるためlightより適していると感じた。一文目では含みを持たせる表現を避けたが最後には含みを持たせた方が前置きらしいのではないかと判断した。
以上の分析から、全体的に複雑な文体であるほど翻訳しづらく、個性的な文であると云える。複雑な文とは比喩の多用、様々なニュアンスを含んだ語句の使用、特殊な世界観、一文が長い、などの特徴を持つ文章のことである。そのため個性的な文は難解でありあまり一般受けしない。これは日本の近代文学、そして長野に合致することである。川上は私たちが生きる身近な世界を物語の舞台に設定し、日常の中の誰も目にとめないような出来事を独自の視点で見つめ穏やかであると思えば突然激しい感情を描写するため印象に残りやすい。また、前置きや物語の鍵となる部分では抽象的な表現をするがそれ以外では難解でない文章を書くため、非常に効果的な手法を使っているように感じる。そのため芥川賞を受賞するまでに認められている。対し長野は一定の静けさが作品に流れており、情感を揺さぶる力が弱い。通俗的な作品のように媚びを売りたくない、「普通」の作品は書きたくないのかもしれないが一度世間に認められるためにはある程度、現代の読み手のニーズに合致したような作品を書く必要がある。

表象とどう向き合うか

現代におけるわたしたちは足が不安定でおぼつかない。流行をおって周りに合わせては安心し、それが自分であると認識しているように思える。このような状態だと、知らず知らずのうちに表象に乗っ取られてしまう可能性を、私たちは孕んでいることを再認識する必要があるのではないか。

 よい例が世論調査である。世論調査は人々への問いかけが誘導尋問になっている場合がある。例えばこうだ。

 「あなたは死刑に反対ですか」という問いに対して選択肢が(ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである(イ)場合によっては死刑もやむを得ない(ウ)わからない、一概に言えない」となっている場合である。この場合、「どんな場合でも」「場合によっては」という言い方をみて、(イ)と回答するように仕組まれている。

 こういった国の操作によって我々は本来の意見をうまい具合に隠されてしまっているかもしれないのだ。こうして、間違った社会統合が促進されてゆく。

 そのためには、我々は虚か実かを見分ける目を養わなければならないといえよう。そのためには常に新聞や本などで報道されるニュースにアンテナを張ることが重要だと言いたいところだが、その報道されること自体がすでに誇張されたりする現代社会である。

 では我々はどうすればよいのだろうか。我々は一つの主体として自立したメディアを作り出すことを求められてはいないだろうか。ものの考え方は人それぞれで、メディアも人の数だけあるといってもよいだろう。そういって生まれたひとつの小さなメディアが真実を表していることだってあるかもしれない。

そして社会の流れまで大きく変えてしまうこともあり得るのだ。

 そのためには世界を広める必要がある。世界の多様な文化や歴史的背景を理解し、ひと、自分以外のメディアとの「つながり」をつくっていくことが、世界を変えることにつながると私は考える。

 

参考

「死刑制度に関する世論調査

http://www.jca.apc.org/stop-shikei/news/81/3.html

ゴジラ

http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/godzilla.htm

クロスオーナーシップ

http://ja.wikipedia.org/wiki/クロスオーナーシップ_(メディア)

 

表象と社会心理

「代表されるもの」と「代表するもの」で構成される政治も表象のひとつである。ここで問題となるのが民意がゆがめられて表象されることがあるということである。例えば選挙では議席と票数の間にずれが生じることがある。

世間一般の意見、または多くの人が共有する意見である世論は西洋のコーヒーハウスを起源とする。のちにカフェ、サロンなどでも意見交換されるようになった。

メディア(medium)とは媒体という意味である。媒体とは仲立ちをするもの、つまり現実とわたしたちをつなぐのがメディアである。

メディアは社会を反映する。だから時代によって伝える内容が異なる。特定少数の発信者から、一方的かつ不特定多数の受け手へ向けての情報伝達の手段がメディアである。新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどである。

ジャーナリズム(=報道)とは、ニュース・出来事・事件・事故などを取材し、記事・番組・本を作成して広く公表・伝達する行為である。

ジャーナリズムとメディアの違いは、ジャーナリズムは、内容(真相)のことに重点を置き、マスメディアは、それを流すことに重点を置いている点である。

メディアにおけるクロスオーナーシップとは、新聞社が放送業に資本参加するなど、特定資本が多数のメディアを傘下にして影響をおよぼすことである。

クロスオーナーシップの問題点は、人々が一面的な視点になってしまうことである。

我々の社会は安全かというと、体感危険度のみが上昇し、数値的には事件数が減少しているのが事実である。世論調査は、誘導尋問でゆがめられてしまっているのだ。

そのため、この時代においては自分の価値観、信念をしっかり持つことと、固有の視点を一人一人がもち、多面的な見方で問題を見つめることが大切である。

多くの人が同じ価値観を共有すると社会統合の促進、統治の正当化が行われる。単なるマスメディアの意見や願望がアナウンスされ、世論操作されるのがよい例である。ベトナム戦争でアメリカが敗戦したのはペンタゴンペーパーズやニューヨークタイムズ紙の力が大きかったためといえる。

世論は知識をもつ関心層、他に追従する中間層、知識をもたない無関心層に区分できる。だから世論調査を鵜呑みにしてはならないのである。報道は中立公正であるべきである。

戦争体制下では言論体制の一元化がおこなわれていた。講義では、中央公論社石川達三の『生きている兵隊』を取り扱った。この小説では検閲による伏字、また発禁が行われた。それによって南京大虐殺の事実が隠され表象されないという問題があった。くわしくいうと、情報操作により、知らないことをしらない、気づけない状態もしくは知らないことを知っている状態になることである。そうするとあきらめの感や口にしてはいけない、いわゆるタブーが社会に広まり、無力感社会が構築されてしまう。

また、講義では水爆大怪獣映画『ゴジラ』を扱った。敗戦からほどない時期であるということはもちろんだが、冷戦と核開発競争、朝鮮戦争、すでに始まった日本の再軍備など、当時の日本を取り巻く状況は戦争への危機感を募らせるに足るもので、それが反映されているといえるだろう。「ゴジラ」が核批判をもとにした作品であるという評価は定着しているが、核をも含む「反戦」の思想を見出すべきであろう。

なお、ゴジラオキシジェンデストロイヤーという秘密兵器によって最期を遂げる。「水爆大怪獣」を超越する兵器の登場は、あたかも核抑止論のような発想である。その後の世界の流れを予見していたかのように思えてならない。

また、この映画には戦後の女性表象が登場する。戦後の女性解放により自由恋愛ができるようになった女性、政治で活躍できるようになった女性が本編にはでてくる。女性は公私ともに自由になったのである。

また、人を救うために正当化される発明品や、原子力エネルギー開発の問題も浮上する。

原子力発電に関しては、教科書問題を講義では扱った。国や電力業界は七十年代後半から一般大衆向けの原発PRを本格化させ、そのターゲットの一つとなったのが子供だった。

また、電力業界は漫画家ともつながりをもった。しかしその中で手塚治虫は自身は原発反対派なのにもかかわらず、漫画を無断利用された。手塚はまた鉄腕アトムに関しては「ひたすら進歩のみを目指して突っ走る科学技術が、どんなに深い亀裂や歪みを社会にもたらし、差別を生み、人間や生命あるものを無残に傷つけていくかを書いたつもりです」と言っている。

 また小中学生向けの教科書は公正さに課題があるとされる。

 表象がいかに広まるかは経済にかかっている。

 現代美術(=COMTEMPORARY ART)とは、その時代における出来事をアートで表現することである。

表象と私たちと世界

表象=representationとは、ジーニアス和英辞典によれば表現(する「される」こと)、表現[描写]した[された]もの、記号、代表(する[される]こと)、代理(権)、陳情、抗議等、様々な意味をもつ。記号論で言えば「表象されるもの」と「表象するもの」である。「表象されるもの」とは心に思い浮かべる像、「表象するもの」とは作品のことだ。記号とは意味するもの、すなわち表現、意味されるもの、すなわち内容のことである。意味するものは表象をみる人の心に浮かぶものなので、どこにも現実は存在しない。表象≠現実なのである。

表象は五感で感じとるものである。大まかに音楽等の時間表象と絵画等の空間表象がある。こういったメディア=媒体は昔と今で大きく形態を変えている。昔はレコード等、私達は生で触れる事が出来たが、今はテクノロジーの進歩により需要が容易になり「再現」が可能になったといえる。レコードからCDへの移り変わりがその例である。

このように現代社会は時間メディアに囲まれている。同じ時間に同じ感性を揺さぶられる多くの個人はもはや大きな一つの共同体である。その中で批判的に表象を分析し、時々周りを見渡して自分がどこにいるのかを知り、自分という存在を見失わないことが私達の課題である。

人の体は前後、方向=センスをもっている。これらは私達の世界を決めるものだ。

だが、カメラの視点は私達に見ることが不可能な世界をみせてくれる。その技法としてモンタージュがある。これは単体の写真等を組み合わせて新しい意味を生み出すことである。

普段の私たちは主体から客体をみているが映像を見た時はその逆になる。映像は世界の再構築を訴える。その時私達は「私」「今」「ここ」といった認識の原点に立ち返ってみるのである。授業ではコマ撮りの映像作品である伊藤高志のイルミネーション・ゴーストシリーズの“SPACY”を取り扱った。

芸術という領域は1.文芸2.音楽3.絵画4.演劇5.建築6.彫刻7.舞踊8.映画とされている。

近代は遠近法でものを把握していたが、現代になり複製技術により映画が登場し「オリジナル」という唯一の、真正の作品という観念が消失する。

映画の文法とはアングル、フレーム、モンタージュ等である。授業では「アメリカン・シネマ“ハリウッドスタイル”を扱った。

「分かりやすくて面白い映画の文法」とされるハリウッドの手法は、技術や撮り方は観客の目に触れないようにし、カメラの動きと俳優の表情に配慮する方法をとる。

ハッピーエンドでないのが名作とされ、編集、撮影、脚本の技術をここで確立する。あらゆる点が事前に決定されていることを特徴とする。技法としてはMTVカット等があり、シネマスコープに適用されていた。ストーリーの特徴としては、一人称視点で語られ身分差の恋が度々登場するということが挙げられる。世界中の誰もがヒロインとヒーロー、どちらか若しくは両方に感情移入することを狙っているのだ。授業では「VISION OF LIGHT」を扱った。

表象には女性も含まれる。なぜ女性なのかという問いに対しては、一般的に社会的地位が低く弱い存在であると捉えられがちな女性にスポットライトを当てることで、普段隠されてしまう女性の意見を表向きにして女性の人権、存在について主張し人々に考えさせるためであると私は答える。

女性の描かれる対象としては無垢、優しさ、弱さ、というイメージをもつ「聖母型」と汚れた女性という「勝負型」がある。そして男性という存在と対比すれば力を行使できる側とできない側、と表現することもできる。授業では性差、人種差、階級差等のテーマを含む題材として「ひめゆり戦史 いま問う国家と教育」を扱った。

主体であり対象でもあり表象でもあるものとしてパフォーマンス・アートがある。授業ではイトー・ターリの「ひとつの応答」を扱った。この作品は朝鮮人慰安婦を題材に日本人が表象しているものだ。日本と女性の在り方を問うている。

ジェンダーとは文化的性差、セクシュアリティとは性意識のことである。イトーのテーマは広い表皮、「内と外」である。表皮は内と外の境界、彼女にとっての「内」とは同性愛のことである。

このように内と外、つまり内なる個人と社会的規範にずれがある人は生き辛く、自分自身の価値に悩むことが多い。他者に認めてもらうことが出来ればよいが、それも叶わず自己肯定できないと他者否定に走ってしまう。

ジャーナリズムも表象のひとつである。選挙では民意(=世論)を歪めて表象していることがあり、私達はそれに表象されないよう利用されないよう心掛けるべきだ。

このように、現実と私達の仲立ちをしてつなぐ役割をするのがメディア=媒体である。

   「表象の持つ力の渦」

 表象は人々、この世界にとってなくてはならないものである。故に、この世界から無くすことはできない。

しかしながら、その表象も問題をかかえている。それは、まず力を持ちすぎることがあるという点である。表象の持つ力に呑まれ、自己をありのままに表象できない人々がいる。ジャーナリズムの例を挙げれば分かり易いだろう。政治は多数決で決まる。

だが、そうして決められたものが正であるとは限らない。

そして大衆文化が発信する娯楽もまたその類である。流行しているからといって何の考えもなしにファッションを取り入れるだとか音楽を皆で聞くというのは危険である。わたしたちはそういったものに惑わされて自己を見失ってはならない。なぜなら、そういった大きなメディアの陰には大きな支配権力が及んでいる可能性があるからだ。気づいたときには私達は個性を失い、ひとつの無個性な共同体になりかねない。外見を取り繕うばかりで中身の無い状態になってしまう。

そもそも個性とは私たちの「内」から滲み出るものである。前述のような無個性な状態にならないためにはどうすればよいか。その答えは、自己を確立するということである。

そのためには、一つのものに囚われず様々な表象を吟味したうえで、自分とつながりのあると感じ取れるものを模索して、それに自分の姿というものを見出せばよいのではないだろうか。

 次に、媒体によって対象の受け取り方が異なり、当初の目的とは違う方向に広まる可能性を持つという点である。表象を受け取る対象、つまり人々も媒体となり得る。

しかし人々はひとりひとり異なる存在なので解釈の仕方、広め方も変わってくる。

抽象的な例えだがここに「林檎」があるとしよう。そして、人々がその「林檎」を立って見つめている。人々は目の前の「林檎」がなんであるのかということを知らないという前提で考えてほしい。ある人は齧ってみて美味しい、と味覚で感じ空腹を満たすため独り占めするかもしれないしあるいは仲間に配るかもしれない。ある人は視覚できれいだ、と感じ絵に描くかもしれない。重さを量る基準にする人もいるかもしれない。(キティちゃんの体重は林檎の個数で公表されている)

このように、人々によって感じ方、そしてそれをどのように利用するかは異なってくる。

これを表象に当てはめた時、問題が浮上する。

表象は悪用される可能性ももっている。映画の例でいえば映画は元々エンターテイメント的側面を持っていたが、人々を感化させやすいということでヒトラーの宣伝(ニュース映画)にも使われた。

 最後に、表象は理解しにくいという問題があるがこれは特に気にする必要はない。表象とは、なかなか言葉に置き換えるのは難しい。

置き換えられたとしても、それが作者の意図していることと合致するとは限らない。表象に触れ、感じ、私達の心が揺さぶられたなら、それだけで十分なのである。

『ペルソナ』(多和田葉子)論 

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まず「ペルソナ」という言葉の意味が気になって調べたところ、次のような説明が出てきた。

「本来の意味は俳優のかぶる仮面。そこから奥にある実体を意味するところになり、個的人格personの意となる。キリスト教神学におけるペルソナとは、三位一体論に関して、神の唯一の神性の中の三つの「私」といえる基体の意であり、客観的に一個のそれ自体で完結している全体、直接神に向かって作られた唯一のものとして、それ自体で完成した理性的な単一実体substantiaを意味する。これはテルトゥリアヌスによるとされ、以後この語は西欧神学、哲学において、認識と愛とを備えた精神的実体の意で用いられた。ユングの心理学では、表に現れた仮面として、社会的なパーソナリティを意味する。」

(ブリタニカ国際大百科事典より抜粋)

 様々な定義があるが、作中においては、「仮面」としての意味と、「社会的なパーソナリティ」という二つの意味で用いられていると思う。それを裏付ける部分を以下に抜粋する。

「深井の面を壁からはずすと、そっと自分の顔に被せてみた。それから玄関の等身大の鏡に自分の姿を映してみた。すると急に自分のからだが大きくなったように感じた。今まで顔に圧倒されて縮こまっていたからだが、急に大きくなったように見えたのだった。しかもその仮面には、これまで言葉にできずにいたことが、表情となってはっきりと表れているのであった。」

 主人公道子は日本人で異国のドイツに学者として学び、精神病院に通っている。ドイツの中の日本人(東アジア人)、また健常者の中の精神病患者(?)という「普通の中のイレギュラーな存在」として作中では描かれている。道子の病気ははっきりとは記されていないがノイローゼではないかと推測する。なぜノイローゼになったのかは、自分と外界とのギャップが強すぎて、またはそれを気に病みすぎてなってしまったのではないだろうか。作中にも「普通とはどういうことかと尋ねられるとカタリーナにも全く見当がつかないのであった」とあるように、イレギュラーな存在である道子は「普通」と「異常」のボーダーラインを引くことに疑念を持っていることが伺える。そして自分が異常の側にいるのではないかと感じ、それを隠すために周囲と上手くやっていくために仮面を被る。しかし私は異常とされるのは道子だけではないと思った。一見普通に見える佐田さんや山本さんも社会のコミュニティに馴染む為に仮面を被っている。そのため考え方によっては「人間は皆異常な部分を持っていないと生きていけない、ありのままで生きていくことは叶わない」というように考えることが出来る。また「人を外見や印象だけで判断するのはおかしい」というのも、皆が自分を取り繕って生きているからである。最後の場面で「金龍」という店がでてくるがこれはセオンリョン・キムをおそらく意識している。初めの場面で道子が彼に好意を抱いたのは自分と似ているからである。この物語が伝えたいのは普通を定義づけることへの批判であると私は思う。

『乳と卵』(川上未映子)論 

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  1. 序論

川上未映子「乳と卵」における中心と周縁の構造はどういったものなのか。また異化の手法はどのように取り入れられているのか。本作品の主題は何であるのか。「乳と卵」という題名に込められたメタファーを考察し、論じる。

〈あらすじ〉

母親の巻子と関係が上手くいっておらず、会話の際筆談をするその娘の緑子が二人で伯母である「わたし」のもとへ滞在しに大阪から東京へやってくる。巻子は以前より豊胸手術を希望しているが緑子は内心そのことに疑問を覚え、奔放な母親の姿を見ていた彼女は自らに初潮が訪れる、つまり大人になることに強い嫌悪感を抱き「厭」と表現する。滞在中に巻子が元夫を訪ねて泥酔して帰ってきたことで緑子は内に抱えていたものが溢れ出し、玉子を手に取りそれを自らの頭に投げつけた。そのことによって巻子は大切なことに気づかされ二人は和解する。

  1. 本論

ⅰ)中心と周縁の構造について

まず「多様な登場人物は物語の進行を促す7つの機能に分けることができ」、語り手は「わたし」であるが、この論では緑子を中心に据え「主人公」とし、「わたし」を「助手」、巻子を「贈与者」(良いものも悪いものも与える)と位置付けて考察していく。

 この物語では世間の認識の中では「普通(本文では、「ほんとうのこと、例えば緑子の周りの胸の成長を自慢する少女たち」)」とされる中心が「異常(本文の緑子が自らを「厭」と表現することから)」とされる周縁を取り巻く形で存在している。しかし世間の中心と周縁、緑子の認識の中の中心と周縁は真逆である。まず、「物語の語り手は、自分たちを世界の中心とみなし、周縁にあるものを彼らとして位置づけ」るため、緑子の中では中心は緑子自身で、周縁は少女たちである。また「『中心』には、「主流」「公認」といった点が認められるのに対し、「周縁」には「不当」「混沌」という要素が認められるのが強い」ことから、「正当」とされる中心の考えが間違っていると感じているのに、緑子は自身が不当であるとされているような感覚を覚えることに「厭」と表現しているのだ。巻子も胸の大きさを気にして世間の中心側に初めはいたが、緑子の玉子を浴びる場面での告白によって周縁側へと移動する。

ⅱ)異化の手法について

 本書p9作品冒頭より。「卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、っていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです。図書室には何回か行ったけど本を借りるための手続きとかがなんかややこしくってだいたい本が少ないしせまいし暗いし何の本を読んでるのんか、人が来たらのぞかれるしそういうのは厭なので、最近は帰りにちゃんとした図書館に行くようにしてる。」

この箇所の特徴としては一つ目に一文が長く読点が多用され、鉤括弧があるべく所に無いことが挙げられる。二つ目には、関西弁特有の表現と敬語が交じっていることが挙げられる。一つ目の特徴は講義で取り扱った作品「三月の5日間」にも共通してみられたものであったが、ここからは語り手の曖昧な思考、人間の整っておらず完璧ではない、リアルな話し方、が表現されているが語り手(初潮を迎える少女=緑子)の思春期の不完全なアイデンティティを読み取ることができる。二つ目は東京の人間とは異なる関西の独特な雰囲気が演出され、この特徴は他の川上の作品にもしばしばみられるが、このことは川上が大阪出身であることに由来すると考えられる。また巻子の元夫が「嘘くさい標準語」を話すと本文にあり、東京の言葉が「標準(普通)」とされるが対する関西弁にすることで母娘の「普通でない」(とされてしまう)という位置づけを強調するという川上の意図も読み取れる。

ⅲ)主題について考察するためのヒント

巻子は豊胸によって失われた女性らしさを取り戻したいのでなく、緑子との関係から目を背けたいのではないかと考える。p36の緊張しながら話す巻子の様子やp39「なんだかそもそもわたしが見えてすらないような感じ」で話す姿がその理由である。

筆談の持つ意味について考察する。緑子は言葉を本作品の殆どの場面で発さないが、言葉で表現しきれない体の動きや体温、空気、感情などを効果的に表現するためであると考える。(cf.これは吉本ばななバブーシュカ」、講義で扱った「三月の5日間」にも見られる技法である)

p40「その胸が大きくなればいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれはもう私たちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産物でしかない」「そんなことはない」と「わたし」の記憶の中で二人の女性が言い争う場面があるが、ここからは「物事に正しいことや間違いは決められていない」という作品のメッセージが読み取れる。p101「ほんまのことってあると思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで。」という物語終盤の巻子の言葉の伏線にこの場面はなっているといえる。

p46「大人になるのは厭なこと」p99「厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でもおおきならな、あかんのや。」という緑子の吐露からは緑子の内面の葛藤、p97「ああ、巻子も緑子もいま現在、言葉が足りん。」という「わたし」の台詞からは不器用で暴力的ではあるがありのままでぶつかった母娘のありようが読み取れる。

p59「乳首から、何もかもが出て行ってしまった。でもな、こうなるんよ。子どもをうんだらば人は。」「何もないねん。ここにはもう。」という巻子の台詞は子ども、つまり緑子を生んだことにより夫や様々なものを失ったと思い込み自らに向けて目を向けない巻子の「逃げ」の姿勢、弱さがうかがえる。

ⅳ)題名に込められたメタファーについて

 題名の「乳と卵」の「乳」は巻子の豊胸手術から、「卵」は初潮を迎える緑子の卵子からの連想である。また母親である巻子とのぎくしゃくした関係により内側の「殻」に引きこもっていた緑子が、東京での3日間によりその「殻」を壊し外側の世界を知るということから「たまご」としての意味も含まれている。それはp25の「緑子は人に自分の体がちょっとでも触れぬように警戒というか、見えぬ膜のなかに自分を入れて少しずつよじらせているように見えた」p32「こんな体があって、その中に閉じ込められてるって感じる」p84「ここの写真の女のひと、たまごみたいな顔してる」p98「玉子を右手に握ってそれを振り上げた。」という表現に象徴的に現れている。p98の緑子が玉子を落として自分の頭に浴びせる場面では、「玉子が割れる」ということが「緑子の内面の殻(膜)が割れる(破れる)、つまり成長、和解ということのメタファーになっている。

  1. 結論

ⅰ)中心と周縁の構造については、以下のように考えることができる。

中心は緑子と巻子、周縁は緑子の周りの少女を代表とする一般化されている考えであり、そことのズレに二人は苦しんでいた。

ⅱ)異化の手法については、以下のように考えられる。

読みずらい文体は登場人物の混沌とした内面を表現するためのものであり、意図的である。

ⅲ)物語の主題については、以下のように考えられる。

主題は「物事には善と悪、正と誤は決められておらず、属する世界によってその判断は異なってくる」ということである。(本文の元夫が「緑子を作ったのは意図的でなかった」という台詞から、生きていることに意味はみんなもっておらず、生き方にそれぞれ正解はない、という絶望的で諦観しているものの前向きになれる見方も裏にあると私は考える)

ⅳ)題名に込められたメタファーについては、以下のように考える。

「乳と卵」の「乳」は子どもが生きるために不可欠な母乳(生のエネルギー)が詰まった胸、「卵」は一つ目の意味として卵子、二つ目の意味として膜をまとった、内側に子どもが宿り、いずれその子ども自身の力によって割られるもの、つまり成長するもののメタファーとしての意味が込められている。

 

  1. 参考

日本文学特講Ⅰ【10】講義プリント

川上未映子(2010)『乳と卵』文春文庫

浅野直樹/榎吉郁夫(2012)『現代文キーワード読解』Z会出版