お茶漬けのしみとふるーつ寒天

お手紙風ブログ。それから本と映画、デザイン、アートとなんやかんやを赤裸々に。

they all look the same パオラ・ピヴィ展


ペロタン東京にて。

パオラピヴィ展を観てきた。

"they all look the same"


都市を見下ろして宙に浮かぶホッキョクグマと、
クジャクの羽のついた車輪。

ホッキョクグマ
その気になれば人を襲い、捕食することが出来る
食物連鎖の上位にいる存在。

人々よりも上位でありたいという意味
を込めて見下ろすような姿勢なのかもしれない。

逆に、
人々から見世物として捉えられたりする存在、
という意味も込めて吊るされているのかもしれない。

この両義性がなんとも皮肉で、クマの表情が複雑に変化するように感じられる。
憂いか優越か。
どちらともいえない顔で六本木の街中で人々を見つめている。

動物からすると、都市に住む人々、車輪をはじめとするモノ、は

"みんなおなじに見える"

のかもしれない。

香りに揺蕩い想うこと


最近アロマオイルを買って、部屋に置いた。

‪たくさんの種類がある中から、
一つだけ自分の好きなものを選ぶというのはとても素晴らしいことのような気がするし、
選別する度に
自分というものがつくられていく気がしてとても心地よい。‬

‪部屋を暗くして小説を読みながらアロマを焚くのがマイブーム。‬

‪柘榴の香りが部屋に漂って、その中で眠りにつくのは至福の時だ。‬

私の好きなもの。
川上未映子三浦しをん江國香織長野まゆみ雪舟えま。
クリムト、ルドン、シャガール
梅干し。アボカド。海ぶどう。きのこ。
ドライフラワー。シーグラス。
空き瓶。額縁。
窓際。日向。木陰。
ジャスミンの香り。
鬱屈した感情。
手の届かないものへの羨望。

美しいものの中に闇があれば、その美しさがより際立つと考えている。
完全な美しさよりも、不完全な美しさの方がより完全な美しさであると思う。

『君の膵臓を食べたい』住野よる

【根暗なクラスメイトくん】である「僕」と、クラスの人気者である桜良。
対極に位置する二人だったが、
一冊の「共病文庫」をきっかけにして
友達以上恋人未満な関係になり始める。
なぜ桜良が「僕」と恋人の関係まで踏み切らなかったのか。
「死ぬ前に恋人じゃないひとといけないことをし」たがったのか。
それは恋人という関係になってしまえば
それだけ大切な存在になってしまい、
お互いの傷が深くなるからだ。

遊びという訳でなく、彼女なりの自分と他人への気遣いだったのだろう。
あっさりあの世へ行って、
周りの人にはいつまでも悲しんでいて欲しくないという純粋な気持ちだったのだと思う。
彼女は「僕」を翻弄するようにからかい、しかし時折感情を隠しきれなくなる。
二人とも、大切な誰かという存在を作るのが怖かったのかもしれない。
今まで人とろくに関わりを持ってこなかった僕と、
たくさん人と関わってきたが繊細な桜良。
対極にある二人だが、その点では共通していた。
だから、病気という秘密を共有することが出来た。
「共病文庫」は、二人を繋ぎとめていた。
膵臓を食べて、君のような人間になりたい、
という意味を込めて「僕」はメールを送信した。
相手にお互い憧れは抱いていても、
お互い相手になることは出来ない。
それでも、気持ちを共有すること、
時間を共有することは出来た。
お互いの持っていないものを得ることが出来た。
「僕」は自己完結型、桜良は他者との繋がりの中で自分を見つけていく性格。

そんな二人の言葉遊び的なじゃれあいも面白かった。

サンシャワー:東南アジアの現代美術展 1980年代から現在まで

サンシャワー展に行ってきた。

sunshowerは天気雨のことだけど、
もしこの風鈴みたいな雨が降ってたら
喜びの雨、恵みの雨、
って思いそう。
生きていく場所を追われた人たちの展示の後にこの展示があった。

冒頭の展示の
"親切にありがとう。神の祝福がありますように"
という言葉の、
「神の祝福」
がサンシャワーなのかな
とか色々考えさせられる展示だった。

"There's no more free."
という言葉があったけど、
経済発展を遂げる中で失われたものはどれだけあっただろう。
半分に断裂された家、追い込まれる文化、人間、そして居場所を失う動物たち。
工事現場の騒音に掻き消される
人々の悲鳴。苦しみ。
それらをアートという形で
生々しいものも含めて
現実として向き合わさせてくれた。


経済が文化を侵食しても、
アートという形で前向きに残そうとする姿勢を見ることが出来た。
これは陶器だけど、
花と天使の象徴らしい。
陶器といえば
大量生産される物質的なもの、
という見方をされがちだけれど、
何かを象徴させることで、
スピリチュアルな意味を配列的なものの中に潜り込ませている。


「崇拝のアイロニー
これはセンザンコウ
センザンコウといえば、
密猟や違法取引で有名な絶滅危惧種の動物。
人々から鱗などに効力があると思われることで、
偶像として崇めたてるために密猟されれば
それは悲哀である、
という意味が込められていると思った。

急速な経済成長の中で失われたもの。
それは
文化
場所
動物
そして精神
そして人間でさえもが
事件により殺されたということを伝える展示があった。

人間が栄えるために行われていることが、
同じ人間を精神的に殺し、
存在さえも消そうとした。

同じ人間だけど、
優位に立つ者は
文化的にも精神的にも
人々を沢山殺している。

それはけだもの、もしくはそれ以下かもしれない。

だけど失われてしまったものはもう戻らない。

陶器の展示のように前向きなものもあったけれど、
悲哀や憤怒の感情を
前半で
強く、赤い激しい色と共に感じた展示だった。

だけど赤い色は
生命力
という意味合いも色彩心理学では持っている。

最後のサンシャワーのような風鈴が、
東南アジアの人々のこれからを表しているのかもしれない。

そう願う。

選んでいくもの

金と愛どちらが大切か
という議論は結論を出す必要は無い。

貧しくて死活問題抱えてる人はお金が大切だっていうだろうし、
余裕がある人は愛って答えるだろうから
結論を出すことに意味は無い。

それに、違う考え方もあると思う。
愛があればお金も貰える、みたいな。
哀れみ(愛しみ)があればその可哀想な相手に食べ物のためのお金を渡す。
偽物の愛でお金を貰うこともできる。
色々な場合がある。

私は強欲だから両方欲しいと思ってしまう。

この問いかけは
合理主義か観念主義かと同じなのかもしれない。

順番としては
子供から大人になるにつれて、観念主義から合理主義になる傾向がある。
でもどちらも持っていないと生き辛い。

完璧な半分じゃなくていいから上手く使いこなさないといけない。
そう思う。

どちらか片方だけかもしれないし、順番が違って両方貰うことだってあるかもしれない。

どちらにしても、人を介しているのは間違いない。
何を選べば幸せになれるのか、よく考えていかなきゃいけない。

普通の生き方


拝啓
どこかの誰かに届きますように

今日は、昨日の話に少し関わる話。
世間一般的によく言われる
"普通"
という概念について。

まともとか、普通とか、
そんな概念は本当は定義付けられない。

世の中を秩序のある状態にするために
とりあえず決められているだけ。
皆少しずつ変な所は持ってる。

個性という言葉の存在意義はそこにある。

量産型だってよく見れば、
話してみれば違いがある。
ロボットな訳では無いし
皆が皆同じ生き方で、同じ経済状況で、同じ体験をすることはあり得ないから違いがある。

嫌われるのは、その秩序、決められた最低限のルールから大きく外れている人かもしれない。

反社会的要素を持った人達。

でも元々はそういった人間ではなかったのかもしれない。

好きで反社会的行動を起こしている訳では無いケースもあるのかもしれない。
何かきっかけがあってそうなることが多いと思う。

生まれつきなのは珍しいんじゃ無いだろうか。私にはよくわからないけど。

別の理由では、平均水準から能力や外見が優れているパターン。
そういう人は何も悪いことしてないし、唯のやっかみで嫌われてしまっているから気にする必要は無い。本当は。

だから自分は普通じゃない、ってことで悩んだり逆に思い上がるのは違うと思う。

それから、完全な模範を目指すっていうのは実はかなり無理をしているし、苦しいし、

わざわざ世の中の皆のために自分を苦しめてまで目指す必要ある?その人生誰のもの?

って思っちゃうけどそういうスタンスの教師には申し訳ない。

開放的に、自由にのびのびしたい。

問題が明らかにある場合は頑張って直して囚われずに生きたい。

テンプレートの幸せや生き方なんてどこにも存在しないから。

自分以外の誰かのための幸せも。

かしこ

生と死のはざまで

拝啓 冥界のあなたへ

今日はドライフラワーを作った。
花瓶に挿してあった枯れかけの花を吊るし上げて、
まさに死にかけからの黄泉がえり
といった感じ。
枯れかけの状態から、美しいといって飾られる。
吊るし上げて逆さまにしたら蘇るというのも不思議だ。
普通は死んでしまうのに。

人間もそうだったらいいのになんて思う。

前置きはこれくらい。ここからは芸術家の話について妄想したことのあれこれを綴る。

頂点にいるアーティストは狂ってたり気分の上下が激しかったりして
苦しみながらその地位を手に入れているというイメージだから、
そんな神聖なものに簡単に「なりたい」とは思ってはいけないんだと感じている。

少しの変人ぽさという名の個性だけ持ってればいいんだと思う。
そうしないと壊れてしまう。
いくら生と死の狭間で揺れるエネルギーに惹かれても自分がそれになろうとすることは自身で自己を破壊することだと思ってる。

精神病理を本当に理解するということは、精神病理的な体験をしているということ。
自分をその世界に没入させるということ。
実際に体験しなくても、仮想的に体験するということ。
普通の人がそれをすれば痛みを理解して苦しむ人に対して優しくなれるかもしれないけど同時に共感しすぎて自らも病むということ。
そうなったらもう共倒れで救いようが無いから、自分のことが人間は一番大事だっていうのは正しいんだ。
そういう場面においては、の話。
死んでしまえば何もかも終わりだし、救いたい人や話したい人、もっとふれあいたい人がいたとしても出来なくなる。
相手だって会えなくなる。
自分の世界には何も無いし見ることも叶わないけど、おいてきぼりにした世界は流れ続けるし変化もある。
良くも悪くも。
そういう風に考えると無責任なことは出来ないし不安になるから死にたくないなって思わない?

正直、自分の死後に恋人が他の人とイチャイチャしてたら
なんだ、私のこと好きじゃなかったんだ、
とか一瞬でも嫉妬するんじゃないかと思う。
本当に恋人のこと好きなら。
好きだから許せるような美しい人間にはなれない。
時間が経たないと許せない。
冥界の人間ではないからよくわからないけれど。

かしこ